栽培学と研究室の歴史
近代農学は、19世紀初頭にドイツのテーア(A.D.Thaer)が、そのころ目覚しい生産性を挙げつつあったイギリスの輪栽式農法をドイツに導入するにあたり、科学的に輪栽式農業の合理性を説明しようとしたことに始まります。テーアは、1)土地の持つ地力をライ麦の反収でバイオアッセイした上で、2)穀物栽培による「地力消耗」と緑肥・堆肥施用による「地力向上」の間のバランスシートから、3)最大収益を得るための作付け体系や経営規模を考究しました。以後、この分析法は”農業重学“と呼ばれ、農学における汎論と位置づけられてきました(これに対して、作物種ごとの栽培法や家畜の飼育法は各論と位置づけられてきました)。農業経営学と栽培学は、いずれもこの”農業重学“にルーツを持っています。
およそ80年後の明治11年、明治政府はヨーロッパの大規模輪作の導入を目指して東京の駒場に農学校を設置しました。ここで農学の教鞭を執ったのはドイツから招聘されたフェスカでした。フェスカの専門は土壌学でしたが、フェスカ自ら十数年の歳月をかけて日本全土を踏査した結果を纏めた「日本地産論」(明治23年)にも、栽培学と経営学を農学の二大柱とするドイツ農学の立場がよく現れています。明治22年には駒場農学校の改組によって、東京大学農学部の前身である帝国大学農科大学ができました。設立当初の農家大学では、作物の特性や栽培法などの各論を農学第二講座が講義し、かたや汎論としての栽培学と経営学を農学第一講座の横井時敬が講義しました。横井は、塩水選法の確立にみるように傑出した栽培学者でもありましたが、次第に講座の教育研究を農業経済学に特化させるようになった結果、大正12年に栽培学を専門に講義する講座として農学第三講座(現在の東京大学栽培学研究室)が新設されることになりました。
農学第三講座の初代教授は、横井時敬の弟子である農商務省農事試験場長・安藤広太郎が兼務しました。安藤は、全国を気候区分で分けた上でそれぞれに試験地を置くという我が国の基本的な育種組織をつくるなど、国家事業の研究管理に卓越した功績を残しましたが、本格的な研究室の体制が整ったのは昭和12年に野口彌吉が二代目の教授となってからでした。野口は、植物生理学の先端知識を作物生産に応用することを栽培学の最も重要な課題と位置づけ、イネ個葉の光合成測定や2,4-Dの稲作への利用、倍数化の育種利用など多くの研究を手がけるとともに、「栽培原論」(昭和21年)を著し、栽培学教育にも大きな軌跡を残しました。昭和35年に野口の後を継いだ川田信一郎は、基礎研究としてイネの根の組織培養や発育生理を進めるとともに、全国の村々を回って稲作技術と農家経営の関係に焦点を当てた鋭い分析を行い、栽培学に大きな軌跡を残しました(「日本作物栽培論」、昭和51年)。以後は、山崎耕宇、秋田重誠を経て現在に至っています。